堰き止めていた 最後の石

本当に久しぶりの更新です。

ベストパートナーで、私の心の旅にいつも寄り添ってくれていたはなちゃんを見送り、はなちゃんの導きで 同じ保護犬のゆめちゃんとルークを家族に迎えての、この秋。

その間、これが自分だと思っていたものの崩壊、どん底、仏教への帰依、またまた爆発、などを繰り返しながらも、その都度身体は順調に回復していき、この夏に出た腫瘍マーカーの結果は、CEA以外は全部正常の範囲内で、しかも、下がっていました。

身体の、いのちの働きの不思議に本当に驚くばかりです。

11月には溜まっていた全てのエネルギーがついに大爆発。

家中のお皿を半分以上叫びながら割続けるという破壊行為と、この世の終わりかと思われるくらいの号泣…

そして、そのあと出てきたのは、小さな小さな可愛い小さな仔犬の姿をした私でした。

ずっと出てくるのを待っていた可愛い子。
従順で、賢そうで、遊びたがりで、とても繊細な可愛い白い犬の姿をしたセルフが、喜びながら、ちょっとはにかみながら尻尾を振って出てきました。

その犬に、私の法名でもある、チカイちゃんと名付けました。

そんなチカイちゃんと、自分の感情にその都度正直に、素直に気づく練習を毎日しています。

先日ご縁があって受けさせてもらった、マインドフルネスセラピー。
今ここの身体の声を、何一つ批判せず、じーーーーっと耳を傾けるセッションを体験しました。

シコリんの後ろ側、左の肩甲骨の後ろの違和感に、じっと手を当てていてもらって出て来たのは「「イヤダ」というのが怖い」という感覚。とても意外でした。

お得意だった善悪や正解不正解は置いておいて

やりたいかやりたくないか、は言えるようになった。

出来るか出来ないか、わかって来て、伝えられるようになった。

気持ちいいか、気持ちよくないかも、わかるようになってきた。

時には上手に断る術を覚えてきた。

でも

「イヤダ」はどうしても言いたくない。

「イヤダ」というと何か怖いことが起こる。

私が「イヤダ」ということで誰かが悲しい思いをする。

だから、私はイヤダを言わない。感じない。

そう決めた時の感覚を思い出しました。

それも多分、とてもとても小さい頃。
赤ちゃんのころか、お腹の中の頃に決めたような感覚が湧き上がってきて、とても言葉で表現できない不思議な感覚の中にいました。

フィールドクリエーターと呼ばれるセラピストのガイドで、「イヤダ」「ヤダヤダ」「イヤだった」「だってイヤなんだもん」を繰り返し、繰り返し口にしました。
イヤダ!イヤだよ!ヤダヤダ!ヤダー!!
二人で交互に「イヤダ」を繰り返して、繰り返し、最後は泣きながら大笑い。

そうか
理由もなく、根拠もない
「イヤダ」が
どうしても言えなかったんだ。

全部そのまま言う必要がなくても、今更イヤだったと誰かに告げる必要はなくても、その都度「イヤダと体が言っているんだな」と気付いてあげて、「ヤダヤダー」と一人でひとしきり言うことをしてあげたって良かったんだ。

そんな人として当たり前のことが、わたしには本当に難しくて、怖くて、出来ずにきたことだったのです。

そう言えば、お皿のカケラの前で号泣していた時も、もうイヤだーと何回も叫んでいたような記憶があります。(そのくらい発狂してしまったのです)

いのちが元気になる道を 堰き止めていた、おそらく最後の岩は

「イヤダ」を言えずに来たこころ。

「イヤダ」を感じずにしてきた心の働き。

チカイちゃん的には「クーン」と一生懸命足踏みして、悲しげに首を振っている感じでしょうか。

道理で
保育士をしてた時の同僚や、道端のお母さんたちが子供達に言うことを聞かせようと「イヤダとか言わないの!」と言う言葉を聞く度に、呼吸が出来なくなったわけです。

「イヤダイヤダ」の絵本を嬉しそうに、子供達を脅かしながら読む先生たちが恐ろしく見えたはずです。

でも、頭が「でもさあ、ヤダって言ったって結局やるんだから、言っても無駄だし、感じない方が楽だよ」と冷めた声を囁いて来ます。

やっと芽生えたこの感覚。やっとどかせそうな石の正体。
これから少しの間、自分の「イヤダ」と向き合ってあげようと思います。

ゆめ観音の優しい心臓

E81DC5CE-57CC-4DE6-BE72-304CA7136E7Bうちに来てくれた ご大切ないのち シニア犬のゆめちゃん。

 

 

 

 

 

血液検査の結果は心臓以外はとても元気でひと安心だったのですが、心臓がとても悪いのです。

逆流弁があるのと、拍動が原因不明で一拍抜けてしまうため、1分間に40と少ししか拍動がありません。

そのため、ペースもゆっくりゆっくり。

そして、捨てられた時のショックや保健所での生活、そして、預かりさんのところに1週間、慌ただしい移動の末、やっとたどり着いた我が家。

これまでの疲れを癒すかのようにたくさん、たくさん眠ります。

日々元気になって来てはいるのですが、食べたくて食べたくて仕方なかったはなちゃんと真逆のゆめちゃん。

食がとても細く、また人間のものを食べていたらしく、なかなか食べてくれない時もあり、そんな時はふらふらになってしまうので目が離せません。

 

このパターンは(@_@)

女神で言うと養育の女神デメテル、または鬼子母神の傾向の強いわたしには、どハマりするパターンです^^;

もっと元気にしてあげたい。

今日より明日は、もっと食べられるものを作ってあげたい。

もっとマッサージしてあげたら楽になるのかしら。

今日元気がないのは

わたしの何が足りないんだろう

 

 

出た(´-ω-`)

きた(´-ω-`)

このパターンヽ(;▽;)

 

 

いのちは 直線的ではなく

ましてや
シニアで 心臓のペースがゆっくりのゆめちゃんなのですから

こんな過度な はからい、努力、期待をすること自体が ゆめちゃんにはプレッシャーかもしれないと言うのに。

 

やれやれ つぼみどん。

ほら
深呼吸 深呼吸。

焦る気持ちにできるだけ早く気づいて

何度も仕切り直します。

 

ゆめちゃんの様子をよく観察して

できるだけのことをしてあげたら

あとは

1日1日が幸せで

ゆめちゃんが楽に気持ちよく過ごせたら

もうそれだけで大きな大きな花丸♪

 

ちょっとでも元気になってくれたら
儲けもの♪♪

 

そもそも

人間の勝手で、今頃は天国に旅立ってしまっているはずだったゆめちゃんと出会え

うちにお迎えできて、こうして一緒にいられていること自体

有り難い 有り難い いのちのご縁なのです♪♪♪

それだけで 感謝感激 雨あられなのです。

 

ゆめちゃんの存在は

私に いのちのことわりと

1日1日を大切に過ごす在り方を教えてくれる

ゆめ観音ですU^ェ^U

 

ゆめちゃんの心臓のペースに合わせて

ゆっくり ゆっくり

生きることを学ぼう。

 

すると

どっくん … どっくん…という

優しい ゆめちゃんの心音が

南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏 に

聴こえてきます。

 

今日もありがとう、ゆんゆん。

明日も一緒に 過ごそうね。

いい夢をみてね。169F6E3F-31FB-4C31-8D4D-092046E1BE0D

あちらと繋がった 臍の緒

5B6A8B16-EBF9-4DEE-96D1-FB0DC551E494先週日曜日にうちにやってきた 元保護犬のシニア ゆめちゃん。

一週間が経ち、捨てられたボロ雑巾のように保健センターで処分を待っていた夢ちゃんの瞳に、ようやく希望の光が灯ってきたように思います。ご飯も食べ始め、久しぶりの散歩を心から堪能し、若いオスに尻尾も振るようになりました(笑)。

愛するものとのお別れを経験したもの同士、やせっぽち同士の熟年二人で、もうひと花咲かせよう♪とえっちらおっちら歩き始めました。そんな二人をはながいつも見守っています。

 

皆さまに支えていただき、見守っていただいてのこの二か月、この場をお借りして心から感謝を申し上げます。

自分の乳がんから始まり、仲良しで同病のりんりんや、その後続いたたくさんの同病の友人達とのお別れ、母の介護、プライベートのこと、そして、はなちゃんの旅立ち。

ギリギリのところで踏ん張ってきたつっかえ棒が外れて、心身ともに立ち上がることができなくなり、黄泉の国、冥界へと落ちていきました。

喪中とは、黄泉の国、冥界に落ちて一つのサイクルの死を体験する時間のことを言うのだなと初めて分かりました。

初めはもがきながら、呻きながら落ちていったのですが、途中からは「降りて」いきました。

今は中途半端に上がってはいけないのだと、もう 今は 底まで落ちて行かなくてはいけないのだと気づき、自らの意志で決めて、底までただ降りて降りて…降りて行きました。

イナンナの冥界降りのように、一つ一つ、これが自我、自分だと思っていたものが剥がされ、崩壊していくのを号泣の合間合間に感じながら。

そして、たどり着いた底は、深い、深い海で、そこには死と生が同じところにあり、恐ろしさは全くなくて、とても静かで、再生を待っている魂達の気配に満ちた場所でした。

ずっとお世話になっていたユング派のカウンセラーの先生にも力添えをいただき、そこでしばらくは中性浮力を保ったまま漂うことにしました。

そこでの時間は、産まれてからもうずっと感じたことがなかった静かで、深い深い安堵の中に漂っている感じでした。

隣にははなが いつも寄り添ってくれていました。

そして、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり浮上してきた時に、私に海の底と繋がっている 臍の緒があることに、ふと気づきました。

 

生も死も同じところにある海の底から繋がっている、その臍の緒のようなつながりをなんと呼べばいいのでしょう。

浄土真宗にご縁をいただいた今の感覚で言うと

阿弥陀仏様に願われ、生かされている私 と

阿弥陀仏様を繋ぐ 

南無阿弥陀仏 という臍の緒。

そんなイメージでもあります。

あの世に居場所が出来たら、この世にも居場所が出来た気がします。

そして、こちらでの命をいただいている間は、どんなに煩わしいことがあっても、人や生き物との繋がりの中で生きていこう。生まれて初めて心からそんな風に思えました。

一緒にいる時間が決して長くはないであろう ゆめちゃんを 家族にお迎えできたのも、ゆめちゃんを 私一人や家族単位だけでなく、地域のみんなや友人たちと一緒に見守り、しあわせの花を咲かせてもらおうと思えたのも、この経験あってでした。

昼間の世界の女王、意識の世界の住人だったイナンナが、冥界で死を体験し、無意識層にあるリビドーの塊である自分と遭遇し、再生した時に「死の眼差し」を手にしていたように

今回の体験で、自分の生の中にきちんと 死が 組み込まれ、あの海の底と臍の緒がしっかりつながっている感覚を実感しました。

そして、あそこに戻っていけばいいのだという物語、阿弥陀仏様の願いで生かされている私という確信に満ちた物語が構築されました。

必然のご縁で、私がこの世界で生きていくための通過儀礼の体験だったのだろうと思います。

通過儀礼は、死や失敗と隣り合わせ…今回はぎりぎりのところで、通過できた気がします。

はな ありがとう。ありがとう。ありがとう。

感謝と愛しかありません。

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そして、地上界で私の旅を見守ってくださり、私の屍にいのちの水をふりかけてくださった皆様、本当にありがとうございました。

これから先の生き方、活動、体験が、全く違う意味を持って、私に語りかけてくる気がしています。

 

もう一度、もう少し

人は喜びとか希望がないと

生きられないんだなとしみじみ思います。

 

仏教に帰依して、南無( お任せします)

阿弥陀仏(限りない光と智慧に)で生きるしか道はないと思っても

 

思い通りにならないのがこの世で

小さな頭で私都合ではからうのをやめて

お任せするしかないのは分かっていても

 

私という存在は 様々なご縁と、阿弥陀仏の私を救いたいと言う願いに 生かされていることを実感しても

 

これだけ一度に、希望や喜びを失うと

現実的に生きる力や立ち上がる力がなかなか湧いてきません。

 

もう一度 海の底に戻って

自然に上がれるまで もう少し

静かに ゆらゆらと 漂っていようと思います。

 

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

ぶくぶくと泡を吐き出しながら唱えて、自然に浮上したら、どんな岸にたどり着くのかな。

 

願かけ

普段サッカーやスポーツを全く見ない私ですが、一昨日の日本対コロンビア戦は何故か見る流れになりました。

ふと

この試合に願をかけよう

そう思いました。

世界ランキング7位と61位の対戦。

この思い通りにならないお手上げの人生に、ミステリーは、神秘は、起きるかどうか。

 

そして

奇跡は起きました。

人生は私の浅知恵では到底及ばないミステリーに満ちた、生きる価値のある場所のようです。

ピーターパンが、妖精を信じるかい?と世界に尋ね、世界中の子どもたちの拍手が起こって死にかけたウェンディが息を吹き返したように、私も世界に拍手を送りたいと思います。

 

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呼吸の仕方

本屋さんで見かけてずっと気になっていた、スクラッチアートの曼荼羅を手に取りました。

螺鈿好き、彫刻刀好き、切り絵好き、コツコツ型の私には、あまりにピッタリで、こ、これは!?と言う出会いです。

息を吸って 南無阿弥陀仏と唱えながら ひと削り。

また 息を吸って 南無阿弥陀仏と唱えながら ひと削り。

すると ようやく 呼吸が できるようになります。

色々浮かんで来る思考を丁寧に整理しては、南無(お委ねします) 阿弥陀仏(限りない光と慈悲と智慧に) と唱えてお委ねしていきます。

整理できないものは、そのままお委ねします。

感情が湧いてきても、そのままお委ねします。

過去が様々に浮かんできても、そのまま お委ねします。

未来への思い煩いも、もうそのまま お委ねします。

物心ついた時から ありのままで生きている許可をもらっていないと感じながら生きてきた気がします。

どこかでいつも「努力するから許してください」「頑張るから許してください」「結果を出すから許してください」そんな風に思いながら生きてきた気がします。

でももう 

そのまんまで、ありのまんまで、南無阿弥陀仏。

呼吸するように 南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏で呼吸しながら

カリ、カリ、カリと削っています。

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海の底から

私自身のいのちのリボンを結び直す作業を、続けています。

青い海の底に はなと一緒に ゆっくり ゆっくり 優しく手をつないで 漂っています。

「喪中」は 、向こうに還っていった愛しい魂と一緒に「向こうの世界」にいって、もう一度生まれ直すまでの 「向こう側」で過ごす時間なのだと、ようやく分かりました。

元の自分に戻るのではなく、戻る必要もなく、戻れるはずもない、愛しいものと一緒に迎える魂の死。

元の自分にはもう戻れないほどの、元の自分が一緒に黄泉に行ってしまうほどの愛に出会えたのだと思います。

愛しい魂と、もう一度此岸に戻ったら、どんな新しい自分として生き直そうか、何をこの海の底において行こうか、そして、いつどんな風に再会しようかを一緒にゆっくりゆっくり話し合う時間。

ダイバーだった頃を思い出して、中性浮力でゆっくり海の底に漂って、今は海の中で静かに静かに過ごしています。

浮上する頃には、新しく生き始めて、このブログを閉じることができそうです。

このブログが乳がんを治すための情報ブログではなく、私 を生き直すプロセスを綴った、一つのナラティブブログだったとすれば、乳がんが治ったか治らなかったかは関係なく、その一つの旅が終わるのだと感じるからです。

急にブログを閉じて、心配していただきご連絡をいただいたたくさんの皆様ごめんなさい。

もうすぐ、ブログを閉じることができそうです。

もうすぐ、一つの旅が終わりそうです。

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リボーン=リボンを結び直す

本当に本当にお辛い状況から、時間をかけて、ご自分を励まし励まし、その状況を乗り越えられて、以前よりも輝く女性になられたお客様であり友人であるJさんから、メールをいただきました。

お辛い渦中で「alohaを受け取ることで、おいのちが「生き」「活き」「勢」直す→リボーン=リボン🎀を結び直すことができた」とおっしゃるご自身の体験を踏まえて、

 

「はなちゃんもツボミさんによってリボン🎀を結び直せたことで喜んで、少し早かったけれど今生のおいのちとして整ったからの旅立ちで、それはツボミさんにとってとても耐え難い大変なことですが、新しい「ツボミさん大好き」を携えて再会の準備をしていると、私は勝手に感じています」

 

ああ

もしそうだったのであれば

はなが、老犬になって捨てられ保健所で処分を待っていたはなが、私との時間で「リボンを結び直せたことで喜んで、少し早かったけれど今生のおいのちとして整ったからの旅立ち」をしたのであれば…

整ったからこその、あの私の腕の中での満足した顔での旅立ちであったのならば…

本望以外のなにものでもない。

お互いに、なんて幸せなご縁だったんだろう。

 

人は、物語がなくては生きるよすがを失ってしまう生き物だと思います。

けれど物語を新しく紡ぐことで、どん底にあってもその人のいのちを救い、明日への梯を編み、そこを危なげな足どりながらも、渡っていく力を与えるのだと思います。

Jさんは、私に「おいのちさん」と出会わせてくれた方でもあります。

そしてまた、今回も私が生きていくための物語を授けてくれました。

はなが、また新しい身体で戻ってきて、はなと私とで再び一緒に活動していけるのならば、力尽きて倒れ込んでいる身体を、一つ、一つ起こしていこう。

はなに負けないくらい元気な身体を作っておこう。

そして、病人と老犬2人で支えあっての日々から、二人で手を取り合って一緒に前を向いて駆けていけるような2人になろう。

一年後は、最愛のパートナーはなと、人生を走り抜けられる準備の整った私でいよう。

 

Jさん

ありがとうございます。

どちらが海の底か空か、わからなくなった海の底でエア切れの状態で必死にもがいていましたが、底からゆっくりゆっくり浮上する先の空を、見つけられた気がします。

 

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自分自身の弁護団 応援団

乳がんとわかってから、どんなことがあっても折れずに来た3年でしたが、プライベートや母の介助などでよろけてきていた頃に訪れた、最愛のはなとの突然のお別れ。

今回はこのダメージを受け止めきれず、心身が面白いように崩壊していっています。

お客様の身体のケアをする仕事なので、この状態では…と友人に代わりをお願いして自分は仕事をほとんど全てキャンセルさせてもらうことに。

今まで自己都合で仕事をキャンセルしたことはなく、それが誇りでもあったのですが、今回は痩せていく心身と崩れていく自己をどうにもコントロールできませんでした。

これが自分だと信じていたもの、価値観、在り方、なにもかも…。

心身喪失して記憶が飛んでしまったり、考えをまったく系統だてて考えられなくなったり、支離滅裂なことを口にしたり、衝動的に走り出してしまったり…。

ああ、人はふとしたきっかけでこんな風にここまで壊れてしまい、這い上がれない時があるんだ、そう思いました。

せっかく小さくなったシコリンも、あっという間に大きくなり、体重は減り、はなが悲しむと分かっていても、ふとした拍子に涙が滝のように流れてきます。

もうだめ。もう限界。お手上げだ。情けないけれど生きているのが精一杯。

けれど、はな が生まれ変わって戻ってくるよとサインをしつこく出し続けてくるので、ここでわたしが死んでしまうと再会がややこしくなってしまうので、生きなくてはいけません。

とにかく、毎日毎日仏様にお任せして南無阿弥陀仏で過ごしているのですが、半分ひきこもりのそんな毎日の中で会った数少ない人の中に、決して順風満帆ではない人生を過ごしてきているのに、時に大泣きしながら、時にどん底に落ちながらもいつもとても輝いている女性が二人います。

ぼーっとした頭でお二人の話している様や会話の端々から、その共通点に気づきました。

それは、彼女たちが自分の中に、絶対的に自分自身を励まし、護ってくれる応援団と、頼もしい弁護団を持っていること。

どんなにだめな時も、どん底の時も自分自身を励まし、弁護し、守ってくれる存在。

どんなに最悪な時でも、「今が」最悪な「状態」なだけで、あなた自身が「最悪」なわけではないんだよ、あなたなら、きっと、また、歩き出せるよと肩を抱いてくれる存在。

もしかしたら、そんな存在を自分の中に持っているのは人間として当たり前なのかもしれませんが、少なくともわたしの中には、そんな頼もしい存在は、二度のいじめを受けた時から、いなかったのです。

代わりにわたしの中にいつもいるのは、とても執拗で決して追及の手を緩めない検察団、もっともっとと指揮棒を振るい続ける指揮者、偏見いっぱいで自分自身をディスカウントスするヘイトスピーチ団です。弁護士は、いたとしても弱々しい国選弁護士レベル。

応援団は いません。

幼い頃からの転居、転勤、自分の地域 のない根無し草感も、そのあり方に拍車をかけました。

車に例えると、人生を運転している「わたし」は存在します。そして、交通ルールもマナーも嫌という程、頭に、身体に、叩き込まれています。

けれど、乗っている車は快適さや好みではなく「生産性、効率性」を重視した車で内装も最低限の装備。

ナビには「人の役に立つ」という立ち寄り地点が設定されていて、ビューは50m。目的地は不明です。

うまくいっている時でも、ナビは「もっとここを」「もっと早く」「あれも、これも」と指示を出してきます。

失敗するとドライブレコーダーを元に警察と検察が即座に検分を始め、裁判官に訴状を書き上げ、裁判所の周りにはヘイトスピーチ団が罵声を浴びせています。その中で「わたし」はヨボヨボの弁護士と一緒に背中を丸めて消え入るように小さく、小さく、小さくなっています。

それが、小学校6年生の時以来の、わたしの人生の根本の在り方だったことに気づいて、愕然としています。

それで、よく今まで生きて来られたね、よくここまで正気でいられたねと、自分を心の底から可哀想に思い、後から後から涙がこぼれます。

どんなカウンセラーの元に通おうと、どんなに癒しの場所にいこうと、ボディワークを試そうと、坐禅を組もうと、どんなにスピリチュアルな教えを学ぼうと、生きている苦しさが少しも楽にならなかったわけです。

はなが、どんなわたしでも慕って、大好き、大好き と尻尾を振り続け

わたしが、どんなはなでも愛して、大好き、大好き と抱きしめ続けたように

私が、私自身の応援団になり、弁護団になり、最後の最後まで自分を見捨てずに大切にすると決めない限りは、私の乳がんは何度でも大きくなり、なにをしていても不安で、自信が持てなくて、生きていることが辛いともがき続ける人生を、この先も生き続けることになることがわかりました。

この自分自身が崩壊し、崩落している今は

もしかしたら、天から、仏様からいただいている チャンスなのかもしれません。

今日は、はなが いつも通り優しくそばに寄り添ってくれている気がします。

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もう ええやないか

441FCC98-C5C7-4E1C-8823-4EB46EFDBFC5こんな方が

朝から肩に乗っかってきて

 

「もう 充分や

もう ええやないか

お任せしぃ」

と笑いながら 話しかけています。

 

うーん

誰だろう

なんで関西弁?

なんでそんなに小さいの

どこからきたの?

まぁ、いいか(*´︶`*)

誰でも

なんでも^ ^

 

ありがとうございます。