suchness

suchnessという言葉に出会いました。

ありのまま、如性 を英語にしたものとのことですが、コンパクトにとてもしっくりと私の中におさまりました。

直訳すると「そう(such)なっていること」「今まさにそうなっていること」と言うような意味だそうです。

どうしても納得できないこと、腑に落ちないこと、理解できないことに出会った時に、それでもどうしても囚われてしまう心から、私を楽にし自由にしてくれます。

どうしても納得できないことは納得できないままで、ただsuchnessなんだろう。

腑に落ちないことは、私の腑に落ちようが落ちまいが、ただのsuchnessなんだろう。

理解できないことも、理解できないままで、やっぱりsuchnessなんだろう(笑)。

自分が生かされているこの世の中はきっと、納得できたり、理解できたり、腑に落ちたりすることの方が少ない、いえ、もしかしたらそんなことが出来るものは一つもないのかもしれません。

そんな中で、ジタバタもがき続け、手に汗と共に握り続け、拠り所を探し、なんとかそれなりに秩序立てようと四苦八苦する心を鎮める言葉 「suchness」。

あの時のあの人の言葉も、思い描いたようなものではなかった人生も、あの曲がり角も、あの選択も
suchness
そうなっていることだったんだろうな。

先のことの不安も未来もsuchness
そうなっているようになるのだろうな。

今の様々な状況も感情も何もかも
suchnesss
今まさにそうなっているだけなのだな。

意味付けや努力、無駄な力を取り除き、suchnessに一瞬でもなれた時、過去も未来も今も受け入れ、抱きしめ、安心プールの中で泳ぎ、安心ホールでタンゴを踊れるようになるのかしら。

私の大きな、大胆な夢は、この世の中に生きているうちにやるべきことをやったら仏様の大きな大きな手の上で、スヤスヤ スヤスヤ 1000年くらい眠らせていただくこと(笑)。

それまでは、suchness を呟きながら眠りにつきたいと思います。

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掌が無理でしたら、せめて足の指先にでも(笑)

自分 が 幻想だった話

前から薄々分かっていたことが確信に変わりつつあります。

自分が死と直結する病気を授かったことと、母の加齢と身体の変化の伴走のため実家に戻って介助していることなどなど…

ここ数年の内省の中で、確信に変わったことがあります。

それは

個としての わたくし と言うものは、実存していないこと。

実現すべき自己も
探求すべき自己も

表現すべきわたくしも
人との対立項としてのわたくしも
様々に思考したり

何かを証明しようとすべくわたくしも

何かを自己選択しているつもりのわたくしも

全て 幻想だということ。

 

私というエネルギーは

ただ周りの重なり合い、連なりあった糸と連動して紡ぎ合う絵の一部で

鳴り響く音楽に自然に呼応する旋律の一部で

自分の意思、自分の思考、自分の存在というものは 最初から 無い 全体の 流れ で 動き はたらき だったということ。

それはエゴにとって、抵抗すべきことなのだけれど、今の私には、今までの葛藤や苦しみからの驚くほどの開放感と解放感を伴った感覚で、視界や五感が全く新しくなった体験でした。

自分 が 幻想だったと分かってからの方が、全てが生き生き見えるのは何故かしら。

明日の風景も、なんだか、子どもの頃のように、ドキドキと楽しみです。

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母への応援歌

母が原因不明の体の痛みで起き上がれなくなり、介助のため実家に戻って一ヶ月が経ちました。

西洋医学的な診断名は、リューマチ性筋痛症。原因はよく分かっていない、高齢の女性に多い症状ですが、寝返りが打てず、朝は四肢の痛みがひどく、日常動作ができません。

ステロイドを投与すれば治ると言うデータもありますが、ステロイドは副作用ももちろんあり、父の知り合いの奥様は重度の副作用で入院して退院のめどが立たないまま弱っていらっしゃるとか。

自然派の母は葛藤しています。

私自身、乳がんと分ってから数々の医者からどんなに「このまま自然療法などしたら死ぬよ」と言われても、身体の声を聴いて自然療法でやって来ただけに、私の発言力や影響力は大きいため、なるべく、母の気持ちに寄り添うべく 声を小さく、小さく、を心がけています。

長引く夜中の介助や、自分のケアになかなか手が回らない状況に、周囲の心配はやはり私の身体のこと。

共倒れするのではないか、せっかく良くなった私の数値が上がるのではないか。

そんな周りの心配を受けて、私のためにステロイドを飲もうかと悩んでいる母を前に、様々に思いを巡らせて落ち着かない心持ちの日々でした。

そして、そんな私の心に すっと 静かに 寄り添ってくれる言葉が綴られた本に、久しぶりに再会し、再読しました。

篠田桃紅さんの「一〇三歳になってわかったこと」(幻冬社)。

103歳まで現代美術家として現役でしごとをして来られた篠田さんの文章は、以前読んでいた頃とは比較にならないほど、透明に、なんの違和感もなく、今の私の心に何よりも沁みました。

ふと目にとまったのは

「自由と言う熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。

自らに由っていますから、孤独で寂しいということはありません。むしろ、気楽で自由です」

という言葉。

そうか、私は 母に 自らに由って生きて欲しいのか。

おきゃんで好奇心旺盛なひとでしたが、昭和10年代生まれの女性だけに、最終的な決断はほとんど父のため、子供たちのため、周りのためでした。

恐ろしいほどの努力と根性で、海外での子育て、孫育て、ボランティアと走り抜いて来た母。

そんな母だけに、自分の身体のこと、いのちのことについては、どうしても 自らに由って、自分だけのために決めて欲しいのです。

その力を、応援したいのです。

それがステロイドであっても、自然療法であっても、どちらでもいい。

自らに由る決断をしてくれれば、それでいい。

それをサポートする以上に大切なことは、今の私にはないのです。

それが、シコリんが教えてくれるalohaな生き方なのです。

そう分かったら、心が驚くほど落ち着いて、水を打ったように鎮りました。

2年前に天国に旅立ったりんりんにしてあげられなかったこと。
いのちのスイッチを自ら押すこと。

今、母に、その力の後押しができたらいいなと思っています。IMG_9009