怪我の功名

IMG_8686シコリんこと乳がんを授かって、あと少しで丸3年になろうとしています。

大きさは4ー7センチの間を、季節ごとや体調次第で行ったり来たり。

みなさんのおかげで、時々あった鈍痛や刺すような痛みはほとんどなくなり、黒い部分も少なくたり、転移も今の所認められないので、仕事も本格的に再開し、表面的には食事以外はほぼ元の生活に戻りつつあります。

この三年近くで大きな輪を描いて、今徐々な元の生活に戻りつつある中で変化したことの一つに

大切な人との関わるときの視点の変化があります。

 

その視点は

「私がいなくなっても、その人の力でできるように、大丈夫なように」。

 

(※例外ははなちゃん。はなちゃんは私が看取りまする〜♡)

福祉で言うところの「エンパワメント」ですが、若い頃は「わたくし」と言うものや自我が邪魔をして、なかなかその視点を身をつけたり浸透させることはできませんでした。

今も、もちろん自分や自我があるので浸透まではしていませんが、頭のどこかに

「私がいなくなっても自分の力で出来ることを伝えられてるかな?」

「自分の力で出来た!と言う自信と前向きな気持ちで生きていけるようなサポートかな?」

と自分に問いかける癖がついているのに気づきました。

こんな心持ちになれたのは、シコリんこと乳がんになったのも怪我の功名?…なんて、この3年間を振り返りながら思うのでした。

愛すること を 再び フロム先生に教わりました

保育士をしていた20代の頃に読んで、わかったような気持ちになっていた著名な心理学者に、エーリッヒ=フロムがいます。

フロイト、ユング、エリクソン、ウィニコット、マズロー…さまざまな心理学者の著作を自分なりに読んで、その時は、それぞれにそうかそうかと納得したり、開眼したつもりになっていたりしましたが、今回ご縁あって久しぶりに出会ったフロムさんにはカウンターパンチ、パラダイムシフト、オセロをひっくり返されたような驚きをもらいました。

フロムの名著『愛するということ』を解説している鈴木晶さんの解説に、こうありました。

「フロムは、愛を与えることは自分の生命を与えることだと述べています。

ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分のなかに息づいているもの」のことです。

相手に対して「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与える」ことが愛だとフロムは言うのです。」

愛すること 与えること は 物心ついた時から自分の中でずっとテーマでした。

 

幼少期の海外で、貧富の差や不平等、差別などを目の当たりにしたことも、その傾向に拍車をかけました。

その後の保育や子育て支援、体のケアの仕事を始め、家族、パートナーとの関係においても、そのテーマにはずっと向き合い続け、自分は偽善者なのか、マゾヒスティックな愛情なのか、たんなるナルシシズムなのか、犠牲者コンプレックスなのか、と何度も何度も、数え切れないくらい検証して、突き詰めた時代もありました。

夢中になってしまい、自分自身の心身の健康を後回しにしてしまう癖はもはや鍛え抜かれた筋肉反射のようなもので、シコリんを授かって人生を生き直しても、やり方を変えようとしても、どんなに理性でコントロールしようとしても、その部分を変えるのは不可能なことに最近気づいて、ションボリと膝を抱えて横になっていじけていました(笑)

 

けれど、この一文は、カウンターパンチでした。何度も何度も、スローモーションで観たいくらいの衝撃の瞬間でした。

そうだったのかー((エコー)かー、かー、かー…)

命やエネルギーを、文字通り 母の乳のように与えるのではなく

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているものあらゆる表現を 与えるのか。

なんたる衝撃。20年前に読んでいたのに(笑)!

何に対しても全力で、手抜きが出来ず、夢中になってやってしまう性分は変えられなくても

愛すること、与えることの 内容を「命」「生命エネルギー」から「息づいているもの」にシフトすることはできるかもしれない。

そうすれば、この絶え間ない全身疲労感、気虚、血虚、腎虚感もきっともう少し和らいで、爽やかで、バランスの取れた日がもう少し増えていくかもしれない(笑)。

希望が湧いてきました。

ありのまま 全くの自然でいることと 全力で愛し与えようとしてしまうところの 中間の、 いい按配 が見つかりそうな予感がしてきました。

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春は すぐこそ よいしょ よいしょ

IMG_8670今年の冬は、例年になく、例年以上に心身に堪えます。

朝起きた時の身体の鉛のような重さ…血虚、気虚、腎虚の塊のような身体と心を、錆びついた鎖を引き剥がすように、うーん、うーん、よいしょ よいしょと伸びをします。

今日も1日、ちゃんとこなせるだろうか…と全てに絶望的になりそうな気持ちをほぐしてくれるのは、もちろんハナちゃんの陽気な ごはんコールと笑顔。

魔法のようなはなちゃん効果で、一気に笑みがこぼれます。

そして、とらわれない、こだわらない、つかまない、せきとめない…の4つのことばを繰り返し繰り返しているうちに、心の錆が少しずつ、少しずつ取れていきます。

ハナちゃんにごはんをあげて、なんとかお散歩に行った後は、湯たんぽを腎臓に充てて、ふくらはぎに遠赤外線をあててもう少し横になります。

身体が少し滑らかに動くようなったらロコモ用(平たく言うと高齢者用の(笑))ステッパーに乗って、少しずつ、よいしょ、よいしょとゆっくり踏み込みます。

そんな風に、2時間くらいかけてなんとか軌道に乗せます。

けれどこのところ、そのよいしょ、よいしょ、のかけ声にもう一つのかけ声が加わりました。

春は よいしょ
すぐそこ よいしょ

春は よいしょ
すぐそこ よいしょ

あちこちの蕾を見つけて自分にも、蕾にもかけ声をかけながら、今日も1日を始めます。

春は すぐそこ
よいしょ よいしょ

 

 

幸せの原風景に続く道かどうか の 話

先日気の置けない友人と話していた時のこと。

様々なビジネスセミナーや自己啓発セミナー大流行りの経済優先社会。

誰もが何かに急かされるように生きていて、何が大切かわからないまま走り続けなくてはいけない社会で、呼吸を深く、迷わずに歩いて行くには、どうしたらいいのか。

友人は、「自分の中に『これが幸せだ』という幸せの原風景があることが力になると思う」と言いました。

それがあれば、この道は、その幸せに繋がっているのか、この選択をした時に、その原風景に近づいて行くのか、遠ざかってしまうのかという原点にたった判断ができるからです。

自分のことを考えた時、しっかり それが あることに気づきました。

その風景は、大好きな祖母の家で過ごした夏の夜の風景。
海外で張り詰めた毎日を送っていた私には、栃木の田舎(当時はまだ家の前に田んぼがありました)で過ごす夏は、宝石のような宝物の時間でした。

日中は汗だくに遊びまわり、お風呂に入れてもらい、シッカロールをぱんぱん叩いて、ビタミンcのタブレットを口にくわえさせてもらい、お手製のタオル腹巻をしてもらって寝床に向かいます。

子どもには冷房は入れない、という主義だった祖父。でも夏の栃木の一軒家の夜は暑くてなかなか寝つけません。

そんな私たちに、祖母は微笑みながら、寝つくまでうちわで風を送ってくれました。

若い頃とても苦労した祖母のシワシワの手が、ゆったり優しく揺れて気持ちのいい風が吹いてくる、この幸せな時。

おばあちゃん、と呼ぶと、はあい、と小さい声ではにかむように答える祖母の声。

眠いのに、この時間がずっと続いて欲しくて、一生懸命に起きようとして、でも、水戸線のがたんごとんという音も、雨戸を越えて聞こえるカエルの大合唱も、ふすまを隔てた母や叔母たちの忍び笑いの声すら、子守唄に聞こえて…そのまま眠りに落ちて行くふわりとした感覚。

それが私の幸せの原風景です。

この風景に続く道なのかどうか。
こんな風景を、誰かに、なにかの形で手渡すことができるかどうか。

そんな価値基準でやっていけば大丈夫。

お金持ちやいわゆる成功者にならなくても、幸せ長者になれる(笑)!

そんな安心感を胸にゆっくり眠れた夜でした。

わらしべ長者は、わら が始まりなら、私の場合は シコリんが始まり。

シコリんにも、改めて感謝したのでした。

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ないない違い&ケ・セラ・セラ

交流分析と言う心理学的アプローチに、禁止令 と言うものがあります。

幼い頃から身につけた、自分を縛り、不自由にする自分自身への禁止令。

私の中にはそれこそ星の数ほど禁止令があり、毎瞬間無意識に呪文のように脳内でループさせていたことと思います。

 

迷惑をかけない
流されない
間違わない
失敗しない
落ち込まない
体調を崩さない
怠けない
嘘をつかない
ワガママを言わない
甘えない

エトセトラ エトセトラ…

それはそれは、毎日しんどいわけでした(笑)ε-(´∀`; )

 

同じ「ない」ですが、このところずっと、脳だけでなく身体中をループしているのは、この4つの言葉たち。

こだわらない

とらわれない

つかまない

せきとめない

同じ「ない」ですが、禁止令とは逆に、心身がどんどん解放され、開放されていくのがわかります。

前者が 禁止令なら、後者は 解放(開放)令とでも言いましょうか。

この4つの言葉たちが爽やかに 穏やかに 私の中を駆け抜ける時の BGMは、なぜかドリス・デイの陽気な「ケ・セラ・セラ」。

Que sera, sera
ケ・セラ・セラ
Whatever will be, will be
なるようになるわ

今日も

ケ・セラ・セラwith the magical four words な1日です。

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自立志向から 自由になった話

IMG_0660人は「自立する」ことを志向しなくてはならない…

長い長い間、そう思って生きてきました。

女性であっても一人の人間として自分の足でしっかり立って、自分の考えをきちんと持って、自分らしく、自分の人生を全うする。

 

「精神的自立と経済的自立の両輪の確立を目指すのが21世紀の女性」。「女性の権利、人間が生来持っている権利を擁護、行使してこそ…」そう習ったのは、フェミニズム教育に力を入れていた女子高に通っていた頃。

茨木のり子さんの「倚りかからず」の詩に痺れ、打たれた20代。

そこから、自立の道、自己の確立を模索して、模索して、模索して…

時には自分の足で立てているかのような妄想を生き

時には「自分」という幻の深い底なし沼のある霧の森で迷子になって彷徨い

自立できない自分の原因を四六時中分析し、心理学を読み漁り、欠点を探し

変えるべきところがあるはずだとあちこちをほじくり回し、果てしなく飽くなき自己批判を繰り返し

くたびれ果て、答えが見つからない無力感に打ちのめされ…

 

けれど

ようやく

ここに来て

その幻から解放され

自分と言う幻想そのものから

自由になりつつあります。

 

自分というものは、インディペンデントではなく、様々なご縁や様々な要素の集合体で、時事刻々と変化しながら、たまたま、今、ここに、存在しているもの。

その世界の中には、自立や自己と言うものは成り立ちません。
主張するべき権利も、達成すべき、実現すべき何かも、存在しません。

そのことに気づいて、自立や自己と言うものを探すのをやめた時の、平安と安心の気持ちは、とても言葉で言い表わすことが出来ません。

私も含め、誰もが、ご縁で成り立ち、ご縁で生かされて、ご縁に導かれて、そこ ここ に いる。

この、シコリんこと 乳がんさえ ご縁の賜物で、ご縁様(笑)。

そう思うと、世の中は、自力ではなく、他力と、他力の中に生かされている人々のほんの些細な努力で、善悪を越えた完全な万華鏡として存在し、形にならない 確かなもので 満たされている。

45年間生きて来て、こんなに 平安な気持ちになったのは初めてです。

もう、自分探しをしなくていい
もう特別な何かをしようとしなくていい
自分らしさを探さなくていい

自分と言うご縁さまを
おいのちさんが生かしてくれている間
大切に 自然に 流れるまま

迷惑をかけあい、許容しあいながら
普通に ただ 今を 生きていい。

しばらくは、この平安をそのまま感じてみたいと思います。

ん?と言うことは…

おいのちさん は ご縁さま。

私は 数えられない ご縁の 集合体として 元素を纏い ここに たまたまいる存在(維摩経的理解)

ん?と言うことは…

はっ
私は…ご縁さま?!

え、そうなると

私(自己、自我)なんて
ないも同然じゃないですかーーー٩( ‘ω’ )و

 

聞いてないよー!(いえ、お釈迦さまは何千年も前からそう仰ってますよね(笑))

今迄、なんのために自己表現やら、自分探しやら、自他の境界を引くやらといった苦手分野に、それが必須条件かのごとく各方面から吹き込まれ、自分をムチ打ってここまで来たのか(笑)。

もっと早く、せめて、あの感受性が豊かで、全てと繋がっていた小学校くらいで知っていたならば(笑)。

私自身がご縁様なら(綺麗な網の目の糸がちょっと盛り上がった集合体のようなイメージ)

そのご縁の糸が連れていってくれるところに、無心に、ありがたいなーありがたいなーとお任せてしておけばいいと言うことですね。

と言うかそれ以外はあり得なくて、ジタバタやはかりごとは、労力の無駄だと言うことですね。

うーむ(๑˃̵ᴗ˂̵)

魚くん風に言うと、ギョ縁様に、ありがとうギョざいます。

なんだか
物心ついた時からの
肩の力が抜けた午後でギョざいます╰(*´︶`*)╯

 

おいのちさんは ご縁の集合体 ご縁さまだったんだ(笑)

 

録画しておいたNHKの「100分で名著」の「維摩経」を観ていて
ハッとしました。

「自分 と言うものは 数知れないご縁の集合体として 今 ここに ある もの」と言うお話。

 

ここでも、何度か登場した、乳がんをきっかけに私が再び出会うことができたおいのちさん。

私が生まれる前から一緒にいて、私を見守り、生かし、私が還っていくところにいる おいのちさん。

おいのちさんって、結局なあに?とよく聞かれて、うーん、感じているけど、言葉にできないなぁと思っていたのですが、ハッと気付きました。

おいのちさんは数え切れないご縁の集合体。

それが たまたま 今 ここに 波の頂点のように 形になったのが私なんだ。

ありがとう!
ありがとう!

嬉しい 嬉しい!

そんな眼で もう一度観ていただけると嬉しいです(๑˃̵ᴗ˂̵)

そして、改めて、私に降りてきたエッセイに素敵な絵をつけ、翻訳し、映像にしてくれた友人達に感謝です。

立春の誓い

5B936F97-54D8-443F-8DAE-299EF7C5CECF土用に弱い私は、一昨日まで黒ゴボウ、ウスバカゲロウ、冬眠中のダンゴムシのような状態でしたが、立春らしい陽気と 親友ご夫妻の励ましで、昨日ようやく、ようやく、ようやく♪生命力が戻ってきました。

(先週の顔色の悪さのピークに仰天していた父上殿、母上殿、ご心配をおかけしました。)

朝起きて、あ、生きてる♪  あ、軽い!と感じたのは久しぶりでした。ああ、生きてるっていいなあ(笑)。

そんな私のこの暗く長かった冬の反省を生かしての

【立春の誓い】

 

私は 当面の間

其の一   “社会の常識”や“流れ”をシャットダウン、浮かんできたら強制終了する

其の二  ポジティブであれ、ネガティブであれ、急かすような声には耳栓する

其の三   お得意の「誰か/何かの役に立つ」という発想・思考を粉砕機にかける

其の四   不安や恐れは宇宙からの「 変化の督促状」だと思って覚悟を決める

其の五   「形にしよう」とする心に ブレーキをかけて 粘り強く 「形にしない」

其の六   心配はアラームをかけて 朝昼晩10分ずつ

其の七    ALOHAと愛が 湧き出てきた時に 出し惜しみなく実行に移す

 

春はもうすぐそこ。

霜でやられた植木も、残りの枝に芽を出そうとしています。

虚実 と がんの 考え方

中医学の考えに、虚証と実証という考え、身体の見方があります。

webや本などがたくさん出ているので、詳しくはそれを見ていただきまして、簡単に、ざっくりと、少々乱暴に言うと 足りない人 と 有り余っている人(笑)。

実際には脈診や舌診、体型や皮膚・髪の状態、触診や問診など、さまざまな観察からその虚実を見立てていくのですが、わたしは立派な脾虚、腎虚の体質です(笑)。

先日、わたしの体を10年以上前から観てくださっている鍼灸医の先生で、70を超えても現役の方から「がんは、虚の体質の人は共存できて、実の人はとったほうがいいと言う記事を読んだのよ。なるほど、と思ったの。だから、つぼみさんはこのまま共存できて天寿を全うできるかもね」というお話をいただきました。

そこで、ハッとしました。

同病だったりんりん、Mさん、そして、ご縁があってお身体をマッサージさせていただいていて天に還られた方々と、私と何が違うのだろうとずっと考えてきたからです。

特に、りんりんやMさんに関しては、乳がんがわかるまでは、わたしと違って病気ひとつしたことがなく、信じられないくらいアクティブで、男顔負けに仕事をこなしてきた女性でした。FD308612-88A8-408D-868E-FD09DAA76D62

彼女たちのガンが進行して、どんどん弱っている時ですら、手当てしているわたしよりも彼女たちの生命力はとても強く、リンパでむくんでパンパンな腕をさすってあげている時ですら、その気血水の流れはわたしよりいいことを感じていたからです。

西洋医学的には「ガンの種類が違ったから」、ということになるのかもしれませんが、東洋医学で見ると、ガンは瘀血、血の汚れが腫瘍となって現れたものです。

同じ汚れなのに、そして、彼女たちのほうが乳がんとしては小さく、歴としても10年くらいかけてガンを育ててきたわたしよりも彼女たちの方が圧倒的に短かったのに。

同じように食事療法も、温熱も心がけてきて、わたしよりもたくさんたくさん調べて、積極的に、全力で、体質改善を試みてきたのに。

なのに、何故、あんなに進行が早かったのだろう。

ガンの人と出会った時に、わたしは何を言ってあげられるのだろう。

どんなアドバイスができるのだろう。

 

ずっと悶々としてきたことへの、一つの見方が示されたような気がしました。

小さい頃から腎臓や胃腸が弱かったわたしは、虚 なので、ガンも 虚、いうならば 虚がん(笑)。

そして、エネルギッシュで、もともと気血水が過剰なくらい巡っている 実 の人のガンは、言うなれば 実がん、それだけ元気だということになります。

わたしが取り組んだことは、食事を変えることと、湯たんぽで毎日冷えたところを寝る前に温めること、そして、身体の緊張をとる活元を身体の気が向いた時にやるだけ。そして、出来るだけ省エネにして、人生を楽しもうと決めただけ。

抗がん剤をしたり、手術をしたりして積極的に戦おう、これも取り組もう、あれもやって戦おう、という体力がなかったとも言えます。90A05DF6-BA90-4E8B-86F2-0EA5CF10BDB4

がんの自然療養や養生法、お手当ては、基本的に体力の弱い人向けのものが多い気がするので、虚の人がぼちぼち、根気強く取り組むのには向いているのかもしれません。

 

 

けれど、もしも、実の人のガンが、実だけに元気で進行が早いならば、まずは今あるがんを取る、そして、有り余る体力を術後の回復に役立てる、そしてそのあと体質改善や生き方改善、それも実の体に合ったものを、きちんと見立てられる先生と相談していく、というのもありなのかもしれない、そんな風に思います。

今ならりんりんに、ミリ単位のうちに手術して取ってしまおうよ、りんりんは実だからさ、その後一緒に体質改善に取り組もう!そんな風に言えるのになぁと、昨日は涙がほろほろとこぼれました。

ガンに関しては、西洋医学だけではなく、東洋医学的な見方、スピリチュアル的な見方、波動や量子レベルの見方、心理学的な見方など、さまざまな見方があり、アプローチがあります。

どれかひとつに凝り固まらず、多角的に自分のガンや、今何をこの病気が自分に伝えようとしているのかを静かに眺めること、そして、その後は軌道修正しながらも、自分に合ったやり方を、信頼できると身体が感じている人に見守ってもらって続けていくことが大切なのではないかと思います。

多角的に自分の身体を見るための一つの情報として、今回の情報も役立てていただければ幸いです☆