迷惑をかけ合いながら 許され合いながら

IMG_0175私が言われてフリーズしてしまい、動けなくなってしまう言葉の一つが「迷惑をかけないように」です。

以前、大好きな沖縄で、生命力溢れる沖縄の薬草を使って癌のある人も、そうでない人も、元気で生き生きと生きられる食のプロジェクトを興したい…と沖縄の知人や友人を頼りに出かけていったことは、以前ブログに書きました。

現地ではトントン拍子に進んだかに見えたプロジェクト。それは今は止まっています。

数秘術的に時期が良くなかったとか、方位学的にその時期は沖縄が最悪だったからとか、私が癌の人に向けた活動をするのはまだ心身に負担だからとか、そもそもビジネスに向いていないからこれで良かったんだよ、と多方面から励ましやアドバイスをもらいました。

でも私を固まらせたのは、実は知人の方からいただいたメールの中の「ご紹介した人に迷惑をなるべくかけないでください」というたったの一文に囚われた私の心だったのです。

沖縄でビジネスを始めるに当たってビジネスの大先輩として檄を飛ばしてくれた内容に含まれた、たったの一文だったのですが、私はそこに文字どおり囚われて氷の女王に息を吹きかけられて万年雪に閉じ込められてしまったように動けなくなってしまったのでした。

「よそ様に迷惑をかけないように。」

「人の迷惑にならないように。」

日本人なら100万回は聴いて育つ言葉で、それに異論を唱えるのすら難しい、当たり前の黄金律として成り立っているこの言葉。

でも、その言葉はそれに真面目で誠実であろうとすればするほど見えない糸でがんじがらめに縛られ、「迷惑をかけないで生きる」ことが人生の優先事項になり、その反動で迷惑をかけていると思われる人やその予備軍を心の中で糾弾する心理状態を生み出させる言葉にもなる…だからこそネット炎上などが起きるのではないかしらと密かに思っていました。

そして、先日、ひろさちやさんが紹介しているインド古来の考え方を知りました。

ひろさんは、よくその著作の中で、日本では教育者が「迷惑をかけるな」と教えると言うと、インド人の方がとてもびっくりしたという話を紹介しています。彼らの言い分は、人間として集団で生きている以上迷惑をかけ合いながら生きているのは当たり前で、ならば「お互いに迷惑をかけ合って、許し合いながら生かされているのだ」と言うことがわかることこそ、それを教えるとことこそ、真の教育だと彼らは思っているからだと言うのです。IMG_0176

仏教国タイでも、滅多なことがないと謝らないと言います。きっと同じ考えに基づく行動なのだと思います。(大学の時のアダ名は「ごめんなさい」のつぼみ、今タンゴ教室の先生から出されている課題はステップを間違えても「ごめんなさい」を言わないこと(苦笑))

深いところで「ああ」と納得し、大きなものに許されたような気がして、身体中がホッと緩みました。

日本でも江戸時代は、道などでぶつかっても謝るのではなく「あいに、お互い」(お互い様よ)という言葉を使っていたと杉浦日向子さんも書いていましたっけ。

沖縄を訪れた12月には、まだ乳がんを持っている私が何かをやろうとすることにはやはりリスクを伴うこともあるだろうし、迷惑をかけることもあるのでは、と心のどこかで思っていたのだと思います。

それでも、やりたい!ぜひ実現したい!とビジネスや交渉が苦手な自分を駆り立てて沖縄に行き、全てがうまくいくように思えた時にいただいた「迷惑をかけないでください」の一言は、そんな私に一歩もでられない魔法陣のように作用し、料理そのものへの情熱もその時に凍ってしまったのでした。

迷惑をかけられるのは愉快なことでなく、巻き込まれ、平安を乱されます。時に自分の人間関係や利害関係も壊れる元となります。殺人や犯罪などは究極の迷惑で、それも許すのかという極端思考の声も聞こえてきそうです。

けれど、もう少し身の回りの日常のことに置き換えてみると、確かに自分が迷惑をかけられると困るけれど、自分もまた見えないところ、知らないところで必ず迷惑をかけていて、それを許されて生きているのだという事実を自覚するところから、本当の人としての生き方が始まるのではないかしら。そして、人を糾弾するのではなく、不完全な自分を許して生かしてくれていることへの自然な感謝が生まれるのではないかしら…IMG_0489

そんな風に思えて、身も心も軽くなりました。

沖縄での冒険も、チャレンジしようとしたこともいい思い出に変わり、また料理への情熱も蘇ってきそうな今日この頃です。

 

 

「死は大事な仕事」

imageこのところ、ひろさちや さん の言葉や人生観が妙に胸に沁みます。

昨日は「大往生したいなら医療に関わるな」「どうせ死ぬならがんがいい」の著者で、医師の中村仁一先生との対談「死は大事な仕事 しっかり死ぬということ」を読みました。

日本の医療の現状、患者側の思考放棄の現状から、お話は延命について、脳死について、いのちは誰のものか、老化とどう向き合うのかなどに広がり、誰も言いたがらないこと、避けて通りたいことを、ストレート直球で誤魔化さずに語られている対談で、静かに、心の隅々に染み渡りました。

化学治療を受けないなら検査も引き受けませんと断られ続けて来た謎や、日本人独特の医療お任せパック好きの謎、いのちのことは別次元の活動をしている今の医療従事者と本来の医者の役割とのギャップの謎。

溜飲が下ると共に、とてもホッとしました。

そして、それぞれに活動されているご老体に、目を開けて生きろー、しっかりいのちの本来の姿を生きろーと揺り起こされた感じでした。

タイトルは死ぬという事で、語っているのは死についてなのですが、私には「生きるという仕事」の話に読めました^_^

いのちは仏様からのお預かりもの、病気は連れ添うもの、がんなどの完治の難しい病気と分かったら、それはしっかり死ぬ日(までしっかり生きる)ことを始めるための合図、とひろさん。

今の日本の医者は技術者集団だから、いのちのことは自分で考えて、医者はうまく利用するもの。変にいじらなければ痛みなくちゃんと死ねるようにできているから、と自らも腫瘍を持ちながらあっけらかんと語る中村先生。

なんだか、肩の荷がおりました。

久高島でお目にかかったナビィさんの、しっかり生きてない人はしっかり死ぬこともできないから、しっかり死ぬためにしっかり生きないとね、という言葉と笑顔を思い出しました。

このおいのちさん、仏様からの預かりものである私のいのちを、同じく仏様から預かりものであるシコリんと一緒に歩む。

(ひろさんは、病気を、悪妻のおかげで哲学者になれたソクラテスになぞらえて、悪妻だと思って連れ添うように勧めています(笑))

目を開いていのちの本質から目を背けず、笑って生きられたらいいなと、清々しい、ホッとした気持ちでいっぱいになった本でした。

道元さん ひろさちやさん おいのちさん ありがとう

「100分de名著と言うNHKの番組があります。

テレビを見ることはほとんどないのですが、この番組だけは録り貯めていて、時々観ることがあります。

この「100分de名著 」で、ある一冊をある人が解説している、その100分が、私の人生を大きく変えてくれました。

それは、道元禅師の書かれた「正法眼蔵」を仏教研究家の ひろ さちや さんが解説しておられる番組でした。

もともと私は仏教の考え、中でも禅の教えに深く傾倒していたところがあり、坐禅会などにもよく顔を出したりしていました。

講和を聴きに行ったり、講座を受けたり、様々な仏教の書物も読みました。

けれど、どれも頭の中だけでの理解の域を超えることはなく、本当の意味で「腑に落ちた」ことはなかった気がします。

これまでの流れ、迷いの道の中で、私のタイミングが整っていたのでしょうか。

正法眼蔵の一つ一つの解説、ユーモラスで素敵な漫画、そして、ひろ さちや さんと伊集院光さんのナビゲーションの掛け合いも面白く、ハッと、ハラリと、何かが溶け(解け)ました。

いくつか腑に落ちたのですが、中でも一番私を楽にしてくれ、未だ体験したことがなかった安心の境地に連れて行ってくれたのは、「仏性」についての道元さんの解釈そのもの…と言うよりは、それを図にしたもの、とひろさちやさんの解説(笑)。

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NHK 100分de名著 より

仏性とは生きとし生けるものの中にある仏さまの心の種のようなもので、それに気づき、拡げ、深め、育てていくことが悟りへの道であり、仏に近づく道。

どこかで私達はそう思いがちなのではないでしょうか。私はどこかでずっとその考えにとらわれてきました。

だからこそ、そこに「向かって」努力しなくてはいけない、明日は今より良い自分を創造しなくてはいけない、なぜなら仏性を大きくすることが人生の目的なのだから…そんな風に思って生きてきていた気がします。

そして、そんな「まだまだの私」から「今より少しでもより良い私」にならなくてはならないと言う思いが、自分へのジャッジ、人へのジャッジ、そして何かと比較したり、無意味に落ち込んだり…と言うスパイラルに陥らせ、苦しんだりしてきた気がします。

がんだと分かってからも、その考えは抜けず、常に常に努力してきたのは、この七転八倒のblogを読んでいただいてきてお分かりの通りです(笑)。

でも、道元禅師は、仏性は「この宇宙そのもの」で、私達は仏性の海の中に泳いでいるようなもの、と説きます。

つまり、悟りはゴールでも目的でも結果でもなく、到達するものではない。

なぜなら
もう既に仏性と言う海の中にいるのだから。

その中で精一杯悩めばいいし、迷えばいい。
迷いと悟りはコインの裏表で、私達が迷おうが悟ろうが、そんなことはお構いなく仏性はいつも、そこ、ここ、今ある全てを満たしているから、安心して悩目ばいいんです、迷えばいいんです!
貧乏なら貧乏を、病気なら病気を、老人なら老人を、今を精一杯やればいいんです!

ひろ さちや先生の、にかーっと歯をだして笑われるそのご尊顔も、その解説や言葉にあまりにぴったりで(笑)、全身の力みが抜けていくのがわかりました。同時に力が湧いてきました。

 

そうか、やはりそうだったんだ(o^^o)

これは、シコリんこと乳がんを道しるべに、私がようやく出会えたおいのちさんのことなんだなぁ…と思いました。

おいのちさんに安心して寄りかかること、おいのちさんの中に安心して生きることが、ようやく、また一つ、わかった気がしました。

今日も、今この瞬間も、私は仏性に、おいのちさんにどっぷり包まれていきている…なんて安心感なんでしょう。

在家の私が努力する(身に修める)のは、そのことを信じきる心を育てることだけ。

私を取り囲む仏性、おいのちさんが喜ぶことを心がけて生きるだけ。

他の人に必要以上にお節介しなくても、みんなみんながこのいのちの海、最強でポカポカのセーフティーネットに包まれているのだから、それを信じて見守っていてあげればそれで大丈夫。

Epiphany!(ああ!そうだったのか)…

はあ…この日があって良かった。

生きてきて良かった。

ひと安心、ひと安心(^ν^)

img_5171これからはもっともっと、安心して迷い、安心して悩み、努力(仏性やおいのちさんを信じきる力を磨く)をして、ほっこり生きていけそうです。