自力も他力も 仏の手のうち

imageあの人はなんでも自力でやろうとする人だから….あの人は他力本願だよね、などと使われたりする、自力本願と他力本願。

学生時代は「克己」がモットーで壁に貼っていたくらいでしたので(笑)、どちらかと言えば自力本願の方がしっくり来るため、よく坐禅に通っていました。

けれど、こうしてシコリんを通していのちと向き合う中で、いのちは自力では生かされていないことを感じ入るとともに、他人任せでも治癒への道は始まらないな、そんな風に感じていました。

所謂自力本願と他力本願本来の意味を知りたいな。そう思っていたところ、先日、臨済宗の大分県 ・地蔵寺ご住職、姫野晴道師のこんな記事に出会いました。

………臨黄ネットより引用………

先日、ある老人会に招かれて出講した折、次のような質問を受けた。
「私は浄土真宗の門徒だが、よく”他力本願”ということを聞く。禅宗では”自力本願”というそうだが、どう違うのか?」と。
それに対して、まず「他力」を”他からの助力をあてにすること”、又、「自力」を”自分ひとりだけの力”と解釈するのは誤りであることを強調し、次のように説明した。
親鸞上人が「他力とは、如来の本願力なり」といわれている如く、他力とは本来、阿弥陀仏の念仏往生の本願をいう。本願とは、仏、菩薩が、すべての人を救わんとする根本的な願いのことで、この本願を他力という。換言すれば、自分の力であれこれと処置したり、取りはからったりしないことで、自己のはからいを捨てて、仏の手にすべてを任せることで、これを「自然じねん法爾ほうに」という。
それは、阿弥陀仏という絶対の中に身を投ずることを意味する。
次に自力は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いである。自力を”自分の力”、”己の力”と読むのではなく、”自おのずから備わっている力”、”生まれながらに頂戴している力”と理解すべきである。
生まれたばかりの赤ん坊が、誰も教えたわけでもないのに、母親の乳をのむことを知っている。これは自ら備わった力であり、強いていえば、これが自力であろう。
人間、自分ひとりの力など、本当に小さなものである。もし、自分ひとりの力で生きていると考えるなら、これほどの迷信はない。
正しい意味の自力とは、「自分に働きかけている自然じねんの力はたらきを自覚せしめられること」である。自然は、目に見えない真理が目の前の現象にそのままに露あらわれているのをいう。
たとえば、リンゴが木の枝から落ちる現象に、そのまま万有引力が露呈していると、気づかしめられる力はたらきが自力である。
しかし、もとより仏法に他力と自力の対立があるのではない。自力というのも仏力の名であり、他力と呼ぶも仏力の名である。

…………

ああ!そうか!とても納得し、腑に落ちました。

この記事を転送した仲良しのNちゃんが一言「つぼみちゃん、よくわからないけど…つまり、全部宇宙にお任せってこと?」(笑)(笑)。

すんごい、ザックリ(笑)!でも、その通りだなと思いました。

仏の本願を志して、小さな自分の計らいごとを捨てて、全てを仏の計らいと思ってお任せする。自分の中に備わる大自然(裾野がないくらいの、無限に広がり、全てと繋がったいのちの力)に気づかされ、その力が現れるのを心静かに感じて、観じて、待つ。

いずれにしても、私たちは、仏の掌の中にある、安心(あんじん)の存在であるということです。なんてありがたいこと!

また一つ、生きるのが楽になり、心が晴れ晴れしました(*^^*)