野口整体と私と「待つ」

IMG_1963.jpg
小田まゆみさんの描く観音様はいつも嫋やか

今また向き合っている、そしてきっとこれからずっと深めていくテーマは、やはり「待つ」です。お正月からこちら、ずっと「待つ」とにらめっこをしているだるまさん状態です(笑)。

私が今ご指導を受けて習っている野口整体は、背骨や体癖の観察と愉気、そして活元が指導の柱になります。

観察する、観る、観ずる…言うは易し、実際に踏み出してみるとその難しさといったらありません。誰かを、何かを本気で観察しようとしてみたことがある人であれば、その難しさに唸りしきりの体験をしたことがあるのではないかと思います。

まず、心を静かにすることの難しさの壁に当たります。ただでさえ前頭葉の絶え間ないおしゃべり、批判、雑念が止まないのが現代人。それを静かにさせることが第一の壁です。

その壁をなんとか越えたところに待っているのは、先入観や不安の壁。

せっかちでスッキリ欲の強い脳は、何か少しでも情報がやってくると自分が知っている既知の情報に結びつけ、結論に飛びつきたがります。驚くほど容易に、笑ってしまうくらい短絡的に。

特に、ものや事象ではなく人を対象に観察する時には、自分の心にある漠とした不安が最大の障壁になります。

相手の行動へのジャッジに始まり、自分の感覚や感じ方は正しいのか、自分の中にあるものの投影ではないか、独りよがりなストーリーを作っていないか、今相手はどう感じているだろう…普段心の中にある不安が、そっくりそのまま、デフォルメされた形で浮き上がって、容赦なく迫ってきます。

そこをこらえてこらえて、流して、諦観して、手放して、(滅多にここにはたどり着けないけれどたまに)ようやく自分が「感覚そのもの」、感覚と一体になりかけたなと感じた時、巨大な難関が津波のように押し寄せてきます。

imageそれは、その人の前に、絶え間なく動き続けるいのちの勢いの前に、「動かない何か」で在れるか。

「待つ」そのものとして、その人や対象物の前に「在る」ことができるかという、とてつもなく大きな壁と共にものすごい孤独感が迫ってきます。

積極的に、能動的に、探しにいく、見つけにいくのでもなく。

漫然と、無為に、消極的にじっとしているのでもなく。

意識と感覚の、物凄い 集注をもって

「停止」ではなく、「静止する」という「動」でありながら

相手や対象物の 真に訴えてくるもの、要求、勢いを 観る。そこに専心する。

……ご指導いただいていること、自分が挑戦すると宇宙に宣言してしまったことの大きさに、ため息をついてしまいます(笑)。

どうせ師匠みたいな特殊な人にしかできないことなのさ、とギブアップしたくなります。所詮絵に描いた餅かもしれない、「イワシの頭も信心から」の世界なのかもしれないし、酸っぱいブドウだったで終わるかもしれない…などなどとぶつぶつ逃げを打ちたくなることも(笑)。

でも、それでも生きている限り挑戦し続けたいのです。

その感覚を掴めた時。その感覚で、自分に、人に、対象に向き合えた時。きっと何かががらりと変わることだけはわかるからです。

新しいビビッドな感覚でいのちの息遣いを感じ、その存在を歓べること。人と本当に在り逢うことができること。子供たちやいのちを見守ることができる大人になれること。それはとてつもなく、わくわくする、未知の領域です。

だるまさん だるまさん にらめっこしましょう

笑うと負けよ あっぷっぷ…………

今日も順調に負け越し(笑)。

でも、自分にAhonui(忍耐強さ)をもって、何度でもチャレンジしてまいります。(私たちの声も早く本当に聞けるようになっておくれな、とシコリん&ちっち。待っていておくれ(涙)byつぼみ)